今日も今日とて高倉のお嬢様がご来店された。お嬢様は名をみどりと云ひ、
軍需産業で有名な高倉財閥の一人娘らしい。時々、店先で小間遣ひらしき女と
一緒に居るのを見かける。 そんなお嬢様が、如何なる理由で、このやうな下町の寂びれた貧乏くさい骨董屋なんぞに 行かうと云ふ気になるのか、高貴な方の考へることはとんと分からぬ。 それでも、お得意様で有る事に変はりはないので、おれは精一杯の笑顔を作り、 いらッしゃいませ、高倉のお嬢様、と出迎へる。 お嬢様は、塵や芥でも見るやうな目でおれを一瞥しただけで、骨董の品定めに戻つた。 けッ、お高くとまりやがつて。 思はず口をつひて出かける言葉をぐッと飲み込み、ごゆッくり、とわづかに顔を 引きつらせながら、おれは店の奥に引ッ込んだ。 |
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不愉快な日が続ひてゐる。中々人を嫌ふと云ふことの無いスフィイでさへ、
お嬢様が来ると、おれに店番を押し付けて店の奥に引ッ込んでしまふ位である。 今日も何時ものやうにお嬢様がご来店し、絵唐津茶碗を手に取つて眺めてゐる。 おれも何時ものやうに出迎へ、何時ものやうに不快感を抑へながら店番をしてゐた。 ところが、何かのはづみで、茶碗がするりと落ち、乾いた音と共に割れてしまつたのである。 お嬢様は一瞬動揺の表情を見せたものの、慌てて近寄らうとするおれに気付くと、 鋭い目付きできッとおれを睨んで言つた。 そんな物欲しげに見なくッたッて、払ひますわよ、この位。 おれは、このお嬢様が何を言はんとしてゐるのか分からず、ぽかんと口を空けたまま立ち尽くしてゐた。 お嬢様が、顔を真ッ赤にさせながら、鞄の中から皮の財布を取り出した時に、 弁償しやうとしてゐるのだと云ふ事が漸く理解できた。然かし、おれもこのお嬢様の言動には ほとほと厭気が差してゐたので、思はずかッとなつて、 何を寝呆けた事言つてやがる、おれッちの大事な商品を傷物にして置ひて、その言ひ草はなんだ、 ひと言詫び位言へねえのか、もう良い、金なんざいらねえ、出てけ出てけ、と一気に捲くし立てた。 お嬢様は真ッ青になつて、扉を荒々しく開けると黙つて出て行つてしまつた。 |
その物音を聞き付けて、奥の間から出てきたスフィイに、事の顛末を説明してやると、
スフィイは、折角の御得意様に対して何事か、と文句を言ふではないか。
おれもまだ興奮してゐたものだから、店番しない店番の癖に説教垂れるな、
働かざる者食ふべからずだ、と一喝すると、おれの尋常ならざる剣幕に気圧されたものか、
スフィイは仔鼠のやうに逃げ出してしまつた。 その事件はその場限りで、おれもスフィイも次の日になるとけろりと忘れて、 また何時ものやうに変はらず商ひを続けてゐた。はッきりとは口に出さぬものの、 スフィイも天敵が来ないと分かつた為か、心なしか上機嫌である。全く現金なやつだ。 かうして平穏な日常が戻つてきたかと思はれた一日であつたが。 |
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店を閉めた後に、おれが今日の収支の計算をしてゐると、スフィイが来客だと告げてきた。
たれだ、と聞ひてみると、何か言ひづらさうにしてゐる。
こんな時間に押し売りでも来たのかと、玄関まで赴くと、そこに立つてゐたのは、
昨日怒鳴つて追ひ返へした高倉のお嬢様ではないか。喧嘩でも売りに来たのかと
思ひきや、昨日とは打つて変はつて、何処か神妙な面持ちで、所在無さげに俯ひてゐる。
やァ、これは高倉のお嬢様、ととりあへず口を開ひたものの、今にして思へば阿呆な挨拶であつた。 ともかく、立ち話もなんだからと家に上げ、スフィイに茶を出させ、おれとお嬢様は対座した。 一体何をしにわざわざいらしたのかとおれが聞くと、お嬢様は開口一番、 昨日の事は、わたくしが浅はかで御座いました、お許しくださいませ、と面を上気させながら手をつくではないか。 まさか、かうも素直に謝られるとはおれも予想してゐなかつたので、目をぱちくりとさせて暫し呆然としてゐると、 お許し戴け無いのですね、ごもッともですわ、とお嬢様が続けて言ふものだから、おれは漸く正気に返へって、 許すも許さぬも御座いません、と慌ててかぶりを振つた。 そして、お嬢様は今日ここに来るまでの経緯を話し始めたのであるが、 掻ひ摘まんで言ふと、だうやら己の非を金で解決させやうとした事を恥ぢたと云ふのが理由らしい。 おれも調子が良いものだから、適当に話を合はせながらぺらぺらと、 いやァ、骨董屋なんてェものは、損得なんぞ考へてゐては出来ない商売で御座いますよ、 本当に骨董品を大事にしてくれる人が買つて行つてくだされば、それでおれは満足なんですよ、 などと柄にも無いことを口走つたやうな気がする。 そこで、昨日お嬢様が割つてしまつた絵唐津の話になつたのであるが、お嬢様はそのまま 買はせて戴きますわと言ひ、おれは先ほど口にした言葉の勢いもあり、さうは行かぬ、 傷物をお売りするのは五月雨堂の名前にも傷を付けてしまうと言ひ張つた。 それでは、と然るべき筋の者に継いでもらつた上で、改めてお売りすると云ふ形に収まつた。 それにしても人は分からぬものである。 正直な所、財閥のお嬢様なんて方は、下じもの者には謝つたりしないものだと思つてゐた。 おれがつい素直な感想を口にすると、お嬢様は存外だと云ふ顔をされた。 しまッた、調子に乗り過ぎたかと焦つたが、怒つた訳では無いやうだ。 前から思つていたのだけれど、そのお嬢様と云ふ呼び方、止めて戴けないかしら、 華族であるわけで無し、わたくしも平民ですわ、と。 この日のおれは調子に乗りつひでと言ふのか、よッぽどだうかしてゐたのであらう、 それではみどりさんと呼んでもよろしいですか、などと口走つてゐた。 一瞬お嬢様は驚ひたやうな表情をしてゐたが、やがてふッと頬を緩ませると、 よろしくッてよ、と微笑んだ。 その時初めておれは、この人の美しさに気付ひたのであつた。 |
七月に入り、蒸し暑い日が続ひてゐる。 店の方も相変はらず閑古鳥が鳴ひてゐると云つた按配であるが、 人でごつた返へす骨董屋と云ふのも聞ひたためしが無し、これはこれで仕方が無い。 おれが暇を持て余してゐるのを見越してか、また碌でも無い輩が店に来ておる。 名を江藤結花と云ひ、一応幼馴染みと冠する者ではあるのだが、 何かに付けてはおれを蹴ッ飛ばすやうな野蛮な女なのだ。 この女、その言動に似合はず、可愛らしいものを好み、最近ではスフィイを 可愛い可愛いと言つては、頻繁に五月雨堂を訪れる。 どうせ被害に会ふのはスフィイであるからして、おれは気にせず放ッてゐるのであるが。 かやうに退屈な午後を過ごしてゐると、入り口に人影が現はれた。 何時もとは異なり、微笑を浮かべ、穏やかな足取りで店に入つて来る。 いらッしやいませ、高倉のお嬢様、と言ひかけ、思ひ直して、 いらッしやいませ、みどりさん、と出迎へる。 みどりさんは、わづかに照れ臭さうな表情を見せて、 お邪魔させて戴きますわ、と相好をくずした。 丁度、絵唐津の継ぎが済んでゐたので、早速お披露目と行くと、 みどりさんは一目眺めて、まァ、と感嘆の声を上げた。おれには良く分からぬが、 だうやらよッぽど大した出来らしい。おれが長瀬さんと云ふ老人に頼んだのだと言ふと、 みどりさんも長瀬翁とは知己の仲で、二人で暫しその話題で盛り上がつた。 ふとおれは、結花がおれとみどりさんの談笑をぢッと見ておる事に気付ひた。 いや、見ると言ふよりは、寧ろ睨んでと言つた方がより正確かも知れぬ。 おれが結花の方を向くと、結花はふいと拗ねるやうに視線を逸らした。 そして、仕事を怠けてゐる自分の事は棚に上げて、昼間ッから骨董品の話なんぞ してゐられるなんて良い身分ね、などと、わざわざ聞こへるやうにぬかすのだ。 おれが咎めやうと口を開きかけた時、みどりさんが結花の方に向き直つた。 結花も何を対抗しやうとしてゐるのか、みどりさんの視線を真ッ向から捉らへる。 ただならぬ物を感じ、おれは、スフィイを緩衝材にしやうと探すが、例によつて 逃げ出した後のやうだ。最早呆れて物も言へぬ。 さて、それよりもこちらの方である。みどりさんは腕を組んで、結花の全身を 舐めるやうに眺め回してゐたが、やがて一点に目が行くと、ぴたりと止まつて、 かつてのおれに見せてゐたやうな、憐れみと嘲りの入り混じつた眼差しで結花を見た。 みどりさんが何処を見つめてゐたのかを悟ると、結花の面が恥辱の色に染まる。 だうやら、それは胸のやうであつた。確かに結花の貧しい胸と比べると、 彼女の胸は、如何にも女と云ふやうなふくよかな胸である。 みどりさんは、結花の表情を愉悦に満ちた面持ちで一瞥し、ふんと鼻を鳴らすと、 また伺ひますわ、とおれに告げ、勝ち誇つたやうに店を後にした。 一見すると笑つてゐたやうに見えたものの、目は笑つてゐなかつた。 |
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あれ以来、結花は五月雨堂に来てゐない。 みどりさんが原因であるのは明白なのであるが、だからと言つて、彼女が直接 何かをしたと云ふ訳では無く、寧ろ非は結花の方にあるのだ。 しかし自業自得とは云へ、このままでは何かと気まづいままになりさうであるし、 さりとておれが口を出すのもだうしたものかと数日程思案してゐたが、 或る日リアンが五月雨堂を訪ねて来た際に、結花の様子を知る事となつた。 リアンはスフィイの妹であるが、落ち着きの無い姉とは大いに異なり、 純情可憐と云ふ言葉が良く似合う控へめな娘である。災難な事に結花に気に入られ、 今は結花の家に住まわせてもらつてゐるのだが、幸いにしてあの凶暴女に 危害を加へられてゐないのは何よりである。 リアンの話では、結花は傍目には変わらぬやうに見るが、時々訳も無く ぼんやりとする事があるとのことで、だうやらそれなりに落ち込んでゐるやうだ。 おれには良く分からなかつたが、本人は胸の事を深く気に病んでゐたらしい。 それにしても、あれだけ凶暴女の攻撃的行為を日常的に目にしてゐるにも関はらず、 結花さんの事が心配ですわ、と真剣に考え込むリアンは何とも愛らしい。 思はず頭を撫でてやると、リアンは、健太郎さん、と呟き恥ずかしさうに俯ひた。 |
ふと気付くと、みどりさんが店の前へにゐて、表の骨董品を見る振りをしながら
おれとリアンのやり取りをちらちらと横目で見てゐるではないか。
おれは慌ててみどりさんを呼び入れ、リアンもそれを機に、
それでは健太郎さん、ご機嫌やう、と店を出て行つた。 しんと静まり返へつた店の中に微妙な空気が漂ひ、何か話題をと考へてゐると、 みどりさんがぽつりと、健太郎さん、と呟ひた。何事かと思つたが、さう云へば 今まで名前で呼ばれた事が無かつた事に気付ひた。おそらく、今のリアンの 言葉を聞くまで、おれの名前さへ知らなかつたのであらう。 健太郎さんは、あのやうな娘がお気に入りなのかしら、と唐突にみどりさんは言つた。 余りに唐突過ぎておれは、はァ、と間抜けな返事しか出てこなかつた。 心持ちみどりさんの顔が赤くなつてゐるように見えるのは、初めておれの名前を 呼んだからなのか、それともその唐突な質問の内容の所為なのか。 彼女も直ぐに自分の発言が場違ひである事を覚つたのか、慌てて、 何でもありませんわ、と打ち消し、今日は急ぐので、とそそくさと立ち去つた。 その時おれは、何となくではあるが、厄介な事が起こりさうだ、と朧ろげに感じてゐた。 |
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牧部なつみは近所でも評判の才媛である。 靴屋の主人、大山の小父さんなどは、牧部なつみを殊のほか気に入つているやうで、 やれ名門の城北台女学院に通つてゐるだの、やれ継子なのに一家仲睦まじいだのと、 茶飲み話にこれでもかと言はんばかりに聞かせてくれたりするものである。 そのなつみが、五月雨堂の常連であると云ふ事は、案外知られてゐないやうだ。 黄昏どき、商店街に最も人が溢れる時間、五月雨堂の辺りだけが何事も無いかの如く ひつそりと佇んでゐる中、場所にそぐはぬセヱラア服に、大きな鞄を引ッ下げて、 そろそろと店に入つて来る、それがなつみである。 始め見た時は只の冷やかしとしか思つてゐなかつたのであるが、中中だうして、 下手をするとおれなんぞよりも知識に富んでゐることがあつて驚ろかされる。 近頃では、茶飲みがてら、女学校の事など話してくれるなどして、 おれの良い暇つぶし相手になつてゐる。 その日も、何時ものやうに他愛も無い雑談をつらつらとしてゐたのであるが、そんな中 ふとなつみが思ひ出したやうに、おれに聞ひてきたのである。 何時も来てゐる、あの若いご婦人はどなたか、と。 ここにもご婦人は来るが、大抵しなびたご婦人ばかりで、若いと云ふ形容詞を 付ける事が出来るのは、数へる程しかおらぬ。抑も、一般に若いご婦人と云ふものは、 骨董なんぞに興味を持たぬものではあるが。 前後から判断するに、だうやら、なつみが言つてゐるのはみどりさんの事らしい。 何故そのやうな事を聞くのかと問ふてみると、なつみは黙つて店の外を指差した。 みどりさんが、其処にゐた。 |
おれが立ちあがらんとするのをなつみは制して、自らみどりさんを招き入れた。
みどりさんはやや戸惑ひ気味であつたが、臆せず入つて来たのは流石と言ふべきか。
ひと呼吸置ひて、最近、訝しいご婦人がうろつひてゐると思つてゐたけれど、
となつみは何時ものやうに半目のまま、咎めるやうな口調で語り始めた。
否、それは違ふ、とおれが言ひ掛けるのをなつみは遮り、みどりさんを指差して、
店長さんに迷惑だとは思はないのか、と語気も荒く詰め寄つた。みどりさんも
だうにか反論してはゐるが、何分なつみは才気煥発で舌も良く回る娘である、
到底口では敵ふはずも無い。それに加へて、おれが口を挟まんとすると、
絶妙の頃合ひで遮つてしまうのだ。 それが迷惑だと感じてゐないとは、胸にばかり栄養が行つて、頭の方には 栄養が行かなかつた証拠である、となつみは止どめの一言を発つした。 みどりさんの顔から血の気が引いたのが、傍で見てゐたおれにもはつきり分かつた。 あッ、と言ふ間も無く、みどりさんの平手が、なつみの左頬を打つてゐた。 それに対して、なつみは身じろぎもせずみどりさんを睨め付け、みどりさんは、そのまま 五月雨堂を出て行つた。おれは後を追つたが、なつみが尚ほもおれの行く手を阻む。 あの女で無くても、女なら大勢居る、ここにも居る、とだうやらさう言ひたいらしい。 おれは何やら無性に腹が立つて来た。 違ふ、違ふのだ、おれはそのやうな事は考へてはおらぬのだ、 ええ、ええ、忌忌しい、何故にお前へらは何でもかんでも恋愛事にしやうとするのだ、 何故にお前へらはさうやつておれのささやかな平穏を乱さうとするのだ、 どいつもこいつもいい加減にしやがれ、いッその事まとめて禅寺にでも行ッちまえ、 不平不満の嵐が一気に通ほり過ぎ、おれは空しくなつて脱力感に襲はれた。 みどりさんの姿は既に見えなかつた。 |
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かうなつてしまつては、既に避ける事が出来まい。
高倉みどりは、おれに客と店主と云ふ関係以上のものを求めてゐるのであらう。
平たく言へば、おれに惚れてゐるのだ。
惚れてゐるとまでは行かずとも、惚れつつあるのだ。 常に鈍感鈍感とスフィイから言はれてゐるおれでも、流石にその位は分かる。 しかし、年頃の女と云ふものは、大抵それなりの気位を所持してゐるものであるが、 高倉みどりの気位は、それを遥かに凌ひでゐる。 そのくせ、時時妙に小心者の所もあるのだ、おれに想ひの丈をぶつける事なんぞ、 到底出来やしまい。 尤も、この性格は彼女の生ひ立ちにも関係してゐるのであらう。 高倉財閥は、彼女の父が一代で築き上げたと長瀬さんから聞ひた事がある。 今でこそその名を轟かせてゐるが、ひと昔前へはその日の糧にも困つた程 困窮してゐたさうだ。おそらくは、幼い頃の高倉みどりも辛酸を舐めてゐた事であらうし、 父の事業が成功した後には、その財を目的に近付くやうな輩も大勢居て、 金の汚さは目の当たりにしてゐるのであらう。 先の茶碗を割つてしまつた時の反応のやうに、自分に近付く者は金目当てで、 金さへ払へば文句は無いのだと云ふ考へが根底にあるのかも知れぬ。 さう云ふ意味では、むしろ金に対しては人一倍劣等感があるのだと言へる。 だからこそ、あの時におれのとつた態度が新鮮に映つたに違ひ無い。 あの一件以来、おれの高倉みどりと云ふ女に対する見方が変はつたのは間違ひ無い。 だが、だからと云つて、それがそのまま好意へと発展してゐるかと問はれると、 答へは否である。 今の所おれには彼女を拒絶する理由は無いが、受け入れる義理も無いのである。 |
さうかうする内に日は過ぎて行つた。 結花に引き続き、みどりさんの訪問までもぱつたりと途絶えてゐる。 一人変はつてゐないのがなつみで、先日の一件なぞ無かつたやうに、せつせと 通つてきてゐる。図太いと言ふのか、何と言ふのか。それが悪い事とは言はぬが、 近頃の娘の考へる事は良く分からぬ。 あゝ、それにしても、先の事件より付き纏ふこの閉塞感は何とかならぬものか。 これではまるで、おれが事の元凶になつてゐるやうではないか。 なつてゐると言はれれば返へす言葉が無いのであるが、若しさうであれば、結花も みどりさんもなつみも皆一様におれに想ひを寄せてゐると云ふ事になる。 幾ら何でもそんな馬鹿な事があるものか、くだらん。 あり得ない事で悩んでゐるのも時間の無駄なので、おれはそれ以上考へるのを止めた。 なるやうにしかならぬのだ、其処に居るなつみの図太さを少しは見習ふ事にしやう。 おれが何事も無かつたかの如く振る舞へば、皆いづれ元に戻る事であらう。 と、思つたのは浅薄であつた。おれ自身がさう出来なかつたのである。 と云ふのも、予期せぬ所でみどりさんとばつたり出会つてしまつたのだ。 その日は店を閉めて、スフィイと骨董市に商品を仕入れに行つてゐたのであるが、 喧騒の中、ふとすれ違つた人の顔を見たら、みどりさんであつたのだ。 ものの見事に目が合つてしまい、逃げる事もできぬ。無論、心構へなんぞ 出来てゐる訳も無く、おれは暫しの間、固まつてしまつた。 が、それはみどりさんも 同様で、二人してまるで銅像のやうに身動きせぬまま、時が経つのに身を任せてゐた。 |
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こんにちは、近頃、ご無沙汰ですね、とおれはかすれ声ながらもなんとか挨拶した。
みどりさんもそれで漸く我に返へつたのか、うろたへながらも相槌を打つた。
小間使ひの女が、怪訝さうにおれを見る。
さて困つた、話が続かぬ、何か話さねば、気まづいままでは無いか。
何か話題、話題、話題は。 かやうに精神的に追ひ詰められた時に、人は思はぬ事を口走つたりしてしまうもので あるが、ご多分に漏れず、おれもその口であつた。 よろしかつたら、ご一緒しませんか、と心にも無い言葉が出てしまつたのである。 馬鹿、おれの口の馬鹿、こんな心にも無い事言ひやがつて、後の事だう落とし前へ 付けるつもりだ、この唐変木。否否、さうは云つても、みどりさんの方が、 この気まづい空気を嫌ふ事だらう、きつとおれの誘ひなんぞ断はるに違ひ無い。 おれの頭と口が不毛な論争をしてゐるうちに、みどりさんの口から、はい、と云ふ 返事が聞ひてとれた。あゝ、みどりさんの口も、相当な唐変木である。 |
しかし、彼女の唐変木ぶりは、おれの予想を越へてゐた。
彼女は何時ものやうに連れてゐた小間使ひに何事か伝へると、そのまま帰へらせて
しまつたのである。人数が少なくなればなるほど気まづくなる事は分かり切つて
ゐるのに、一体何を考へているのであらうか。 さらに折り悪しく、スフィイが長瀬さんの姿を見付けると、良い口実が出来たとばかりに 付ひて行つてしまつた。あの裏切り者め、罰として来週のホットケエキは抜きだ。 兎も角、残されたのは、おれとみどりさんだけになつてしまつた。 仕方ない、おれが言い出した事だ、覚悟を決めるとするか。 おれは背後のみどりさんをちらと振り返へり、参りませうか、と言ふと、歩き始めた。 みどりさんはこくりと頷づくと、わづかに歩みを早めて、後から付ひて来た。 二人で半刻程ぶらつひてゐるが、お互ひに黙りこくつたまま、一言の会話も無い。 おれにはそれが苦痛で堪らないのだが、存外みどりさんはさうでも無いやうである。 微かに顔を上気させ、おれが時折振り返へる度に、心なしか嬉しさうな表情を 見せるのだ。そんな姿を見てゐると、その気も無いのに誘つてしまつたのが 申し訳なく思つてしまうのだが、先日のなつみとの一件を考へると、何となく おれにも責任があるやうな気がして、これで償ひとなるのであらば、まァ暫く 我慢する位良いかとも思ふのだつた。 ふと気付くと、周囲の人間が、おれとみどりさんの方をちらちらと見てゐる。 だうやら気のせいと云ふ訳では無い、おそらくは不釣合ひな二人が歩ひてゐるのを 訝つてゐるのだらう。 改めて見ると、おれの普段着に対して、みどりさんは江戸小紋とか云ふ何やら 格調高さうな着物を着てゐるし、立ち居振る舞ひも、歩き方一つ取つてみても いちいち上品である。そして何より、道行く男が振り返へりたくなるやうな美人なのだ。 そんな女がおれのやうな冴へない男と居るのだ、興味を引かぬ訳はあるまい。 とは言へ、他人から見れば羨ましくて仕方ない光景であれど、おれにしてみれば、 スフィイよりは気を使ふ女と歩ひてゐる、という程度の認識しか持つてゐないのであるが。 とまれ、適当に市を見てゐるうちに、それなりに会話も生まれ、何とか気まづい空気は 消えつつあり、漸くおれの心も落ち着ひて来た。初めはだうなる事かと思つてゐたが、 結果的には、おれの唐変木な口の判断が正しかつたのかも知れぬ。 仕入れる物も仕入れ、そろそろスフィイを呼び戻すとするか、と帰へる仕度を 始めるまで、おれはさう思つてゐた。 |
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あらまァ、みどりさんでは御座いませんこと、と甲高い声が聞こへたのはその時である。 見ると、高価さうな着物を身に纏つた、上品さうな初老の夫婦が其処に居た みどりさんは心持ち表情を固くさせたものの、直ぐに笑顔を作つてその女に挨拶をした。 会話を聞くとも無く聞ひてゐると、だうやら社交界とか云ふ所での知り合ひらしい さう言はれてみれば、みどりさんも先程までとは打つて変はつて、堅苦しい上品な 言葉使ひをしてゐる。 話が長くなりさうであつたので、おれは先に帰へらうとして、みどりさんに声を掛けたので あるが、みどりさんが答へる前へに、選りにも選つて、 あら、其方は新しい使用人かしら、などとその婦人はぬかしやがつたのだ。 あゝ、いちいち婦人などと言ふのも腹が立つ、こんな奴は糞婆で十分だ。 だがしかし、それ以上に衝撃を受けたのは、みどりさんが、動揺を面に表はしつつも、 以前見た事のある蔑みの表情を作りながら、 えゝ、さうですわ、と答へた事であつた。 その刹那、一瞬でこめかみに血が集まつたのが自分でも分かつた。 |
もはや激怒の一言で片付けられるレヴェルではない。 無論、みどりさんが本気でおれの事を使用人扱ひしているとは思はなかつたが、 もはやこの感情を止める事は出来ず、おれは息を大きく吸ひ込むと、 おれは紹介する事が恥であるやうな男なのか、散散おれの周はりでおれを 掻き乱しやがつた癖に、とどのつまりおれはその程度の男でしか無かつたのか、 あんたの相手は世間体なのか、それともこのおれなのか、はつきりさせやがれ、 と衆人環視の中、一気に捲くし立てた。 辺りは一気に静まり返へつた。 もう何もかもが滅茶苦茶であつた。 |
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全てを終はりにする言葉であつたが、所詮は住む世界が違ふ者同士、
かう云ふ定めになる事は分かつてゐたのだ、だからおれは後悔はしてゐなかつた。
これ以上ここに居る意味は無い、さつさと帰へろうと、おれは衆人の視線が刺さる中
スフィイとの待ち合はせ場所に向かふ。 ふとその時、おれの着物の裾を掴む者があつた。 見るまでも無い、みどりさんであらう。 おれは強引にそれを振り払ひ、ふたたび歩き始める。 ところが、暫く行くとまた裾が掴まれる。おれはそれをまた振り払ふ。 そんな遣り取りが数回続ひたであらうか、おれはつひに根負けして振り向ひた。 みどりさんは泣ひてゐた。 親にはぐれた子供のやうに、おれの着物の裾を掴んだまま俯ひて、声も出さずに ただ唯ぽろぽろと涙の雫をこぼして其処に立つてゐた。 何やら口をぱくぱくと動かしてゐる様子であるが、言葉になつてゐない。 暫くの間ひだ、良く聞ひてゐると、おれの名を呼んでゐるではないか。 けんたらうさん、けんたらうさん、けんたらうさん、けんたらうさん、けんたらうさん、 けんたらうさん、けんたらうさん、けんたらうさん、けんたらうさん、けんたらうさん、 終ひにはしやくり上げながら、何度も何度もおれの名を呼んでゐた。 |
おれは迷つてゐた。 あの気位の高いみどりさんが、人目を憚らず泣き濡れて、一心におれの事を 求めてゐる。その姿は確かにおれの心の琴線に触れると云ふものである。 しかし、しかしである、今ここで心を鬼にしてみどりさんを突き放せば、一時は 後味の悪い思ひをするやも知れぬが、結局は互ひの幸せになるのではないかと。 先程の言葉通ほり、傍から見れば、おれなんぞ使用人にしか見えぬのだ。 果たして、このやうな不快な思ひに耐へる事が出来る程、おれはこの女を好ひて おるのかと言はれると、自信が無い。さりとて、このままこの場で泣かせておく程 嫌つてゐる訳では無い。 えい、まゝよ、とばかりにおれはみどりさんの手を取り、早足で歩き出す。 先づはこの人気の多い場を離れなくては。まだ泣き止まぬみどりさんの手を 引きながら、おれは何だか近所の子供の相手をしてゐるやうな感覚に陥つてゐた。 さうだ、年上ではあつても、このお嬢様は子供なのだ。子供相手にいちいち青筋を 立ててゐても仕方あるまい。 漸く落ち着ひたみどりさんは、謝り通ほしであつた。 おれは暫く黙つて聞ひてゐたが、余裕が出て来た為か不意に悪戯ごころが湧ひて、 予告も無しにみどりさんを抱きすくめてみたくなつた。あんな事の後であるから、 抗がふやうな事はあるまい、などと小ずるい計算もした上での考へである。 案の定みどりさんは驚ろひたやうであつたが、直ぐに力を抜ひて、おれに躰を預けてきた。 おれは暫しの間ひだ、頭を空ッぽにして、思ふ存分彼女の肉感を味わつた。 ふくよかな胸の感触が実に気持ち良く、下腹部が反応するのが分かる。 この勢ひで胸のひとつでも揉んでやらうなどと不謹慎にも思つてゐたのだが、何かが 頭の片隅に引ッかかつており、それが止めよ止めよと言つて聞かぬ。 今にして思へば、この時既におれの空ッぽの頭が警告を始めてゐたのだつた。 |
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その男は店の常連で、親父が商つてゐる時から来てゐたのを記憶してゐる。
初老と云ふ年代の辺りなのであらうが、その割には体格が良く、店内をじろじろと
見回はす姿が独特で印象に残ってゐた。常連と言つても差し支へないのではあるが、
無愛想な老人で、値引きの交渉などの特に必要な会話以外はする事も無く、
済ませるべき事を済ませるとそそくさと出て行つてしまう。
ただ、骨董を見る目はたいしたもので、稀に掘り出し物が入荷した際には、
見逃す事無く買つて行く。その慧眼には恐れ入るばかりである。 おれが店を継ひでからも男の行動は変はらなかつたのであるが、その日に限つて、 男は何か上の空で、時折おれの方を盗み見てゐるではないか。 当然おれは不審に思つてはゐたものの、まさか今になつて万引きをすると云ふ訳でも あるまい、と余り気にしてゐなかつた。やがて男は、何か意を決したやうにおれに 声を掛けて来た。 今日は店主はおらぬのか、と。 だうやら、親父が旅に出てゐるのを知らぬらしいので、今はおれが店主を努めております、 と答へると、男は目をまろくして絶句してしまつた。 いきなり驚ろかれても困るのはこちらの方である。一体何だ、さァ説明してくれと おれが待ち構へてゐると、男は何とか気を持ち直ほしたのか、荒い息を吐きながら おれを見下すやうに仁王立ちになつた。 みどりの事、だうするつもりだ、と男は言つた。 はァ、としかおれには返へす言葉がなかつた。思ひも掛けない人物から思ひも掛けない 人物の名前が出た為、両者が結び付かなかつたのである。 であるから、男が自分をみどりさんの父親、高倉宗純だと名乗つた時に、おれが それはそれは驚ろひたのも無理はあるまい。 |
高倉翁は、おれが目をぱちくりとさせているのを余所に、尚ほも言葉を続けた。
私も鬼ではない、お前への力量次第では考へてやらぬ事もない、
だが仮にもみどりは高倉財閥の跡取りとも云ふべき存在である、
生半可な力量では私を満足させることは出来ぬ、と。
そして、その力量とやらの条件をおれに突き付けて来たのであつた。
この店で壱千円の儲けを歳末までに叩き出す事、それが条件であると。
余りの常識外れな金額に、おれは他人事のやうな感覚で居た。
が、事の内容が段段と頭の中に浸透するに従つて、おれは呆然とすると同時に、
猛烈に腹が立つて来た。 またおれの知らぬ所で話が勝手に先走つてゐやがる。何時の間に二人の仲は 其処まで進んでゐたのか、これではまるで結納を目の前へに控へた男女のやうではないか。 兎も角落ち着け落ち着け、話し合へば分かる、と頭は呼び掛けてゐたが、それを無視して、 おれの口がまたもや唐変木振りを発揮しやがつた。 あんたには失望しました、骨董を見る目がある人物だと一目置ひてゐたのに、 金儲けの道具としか考へられぬとは、骨董通の風上にも置け 勿論おれに取つては飯の種ではあるが、必要以上に儲けやうとは思つておらぬ。 あんたはここに来る資格なんぞ無い、二度とこの店の敷居を跨ぐな、とどやしつけた。 今にしてみれば、よくもまァ、隠居したとは云へ、財閥の会長様に、ここまで青臭い 建て前が吐けたものだ、赤面ものである。 実際の所は、骨董屋も金儲けの手段であるし、おれも贅沢がしたいと口を大にして 言ひたいのではあるが、まさかここで本音を言ふ訳には行くまい。 |
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おれの言葉に対し、高倉翁の面に怒りの表情がありありと浮かんでゐるのが
見てとれたが、流石は歴戦の強者と言ふべきか年の功と言ふべきか、
今にも店を追ひ出さんとするおれを制し、少しも怯む事なく言葉を続けた。 必要以上の儲けを得る事を嫌ふのが理想と言ふのであらば、それでも良い。 されど、お前へもこの店を切り盛りしてゐる身であるならば、理想ばかり追つてゐる訳にも行くまい。 それに私とて人の親、娘が商売人の元に嫁に行くと言ふのであらば、 せめて相手の男が最低限の物の売り方位出来るかだうか見極めねばなるまい。 儲けが厭だと言ふのならば、今年一年の売り上げで良い、壱千円に届かせてみよ、 悪い条件ではあるまい、と言ふのだ。 滔滔と話す高倉氏に圧倒されて、おれは返事に窮してしまつた。 確かに壱千円の利益を出すよりは、壱千円の売り上げを出す方が遥かに容易いが、 このこぢんまりとした店で、それだけの額を叩き出す事の厳しさは想像に難くない。 この糞爺、何が悪い条件ではあるまいだ、思いッ切り足元見やがつて。 よッぽど怒鳴り付けてやらうかと思つていた時、また何とも頃合ひ悪く、 みどりさんがやつて来た。その途端、みどりさんと高倉氏の両者の顔色が さッと変はつたかと思ふと、おれを差し置ひて言ひ争ひを始めるではないか。 おれも半ば呆れて放つて置ひたのであるが、やがて、高倉氏がみどりさんの腕を 強引に取ると、先程の件確かに約束したぞ、と言ひ捨てて店を出て行つた。 しまッた、うやむやのうちに約束させられてしまつた。 何時の間に来てゐたものか、スフィイがおれの背後で、ご愁傷様、とぼそりと言つた。 |
さて、困つた事になつた。 おれはあの爺さんの条件に同意した訳でもないのであるが、さりとて、 今さらあんな条件は無茶でありますなどと言ひに行くのも何やら気まづいし、 負けを認めた様で癪にさはる。 何とかしてあの爺さんに一泡吹かせたい、その一心でおれは挑戦を 受ける事にした。当事者であるみどりさんの存在は綺麗さつぱり忘れていたが、 何、挑戦に勝つてから考へても遅くはあるまい。 しかし壱千円と云ふのは如何なものであらうか。 試みに、五月雨堂が今年になつてから売り上げた金額を計上するべく算盤を弾くと、 四百八十円と云ふ数字が算出された。 今が十月に入つたばかりの頃、残り三ヶ月足らずで今迄の平均の三倍以上売らねば ならない計算であり、だう考へても無理難題である。 だが、止めると云ふ選択が出来ぬおれには、唸りながらも打開策を捻り出す外はない。 そんなおれの様子を見て、スフィイはぽつりと、 そんなにみどりさんの事を好ひてゐたなんて意外ね、と意味ありげに呟ひた。 おれはいちいち気にも留めず、あゝ、と生返事で返へしただけであつた。 |
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散散思案した挙げ句に、おれが思ひ付ひた策と言つたら、地道に宣伝活動をすると
云ふ事に過ぎなかつた。数日の間ひだ、おれとスフィイは交替で駅前や商店街に
広告を貼る日日を過ごし、また、新聞広告なども出してみた。更には結花にも頼み込んで、
喫茶蜜蜂にも広告を貼らせてもらう事にした。
事の顛末を語ると、結花は寂しさうな表情を見せたが、根は善良な奴である、
快く承諾してくれた。 持つべき物は貧乳の幼馴染みであるな、とおれが言ふと、案の定蹴ッ飛ばされた。 しかし軽口こそ叩ひてはゐたものの、正直に言つておれは途方に暮れてゐた。 この調子では、目標を達する事など無理であると。 一週間余りの時が過ぎたが、一向に客足は増へる兆しを見せぬ。 今日もおれは、何時ものやうにまばらに来る客の相手をしてゐるだけである。 つひにスフィイが見るに見兼ねたのか、その日の閉店後に、おれに詰め寄つてきた。 そのやうな腑抜けた態度ではみどりさんに失礼である、やる気が無いのであれば 今直ぐにでも挑戦を辞退せよ、と。 スフィイの言動に尋常ならざるものを感じて、おれは少し面喰らつたが、ふと何故だか この時になつて、スフィイの身体の異変に気付ひた。 三ヶ月前に五月雨堂に来た当初は、背丈もおれの胸の辺りまでしか無く、丸ッきり 子供の体型であつたものが、今目の前に居るスフィイは、おれの顎の辺りまで背丈があり、 若干ではあるが胸の膨らみも確認出来る。 おれが何気なくその事を指摘すると、スフィイは烈火の如く怒り出した。 そしておれに対して嵐のやうに罵詈雑言を浴びせると、終ひには馬鹿呼ばはりして、 今にも泣き出さんばかりの表情になると店を飛び出して行つてしまつた。 |